初代顧問

根本 芳男(Nemoto Yoshio)

略歴

  1930年11月27日 福島県石川郡古殿町にて 誕生 

  1956年 4月    テニス部顧問就任

  1982年 3月    テニス部顧問離任(島崎 仁へ委譲)

 

略歴

 昭和7年4月   福島県師範学校入学

  12年3月   同上卒業

  16年5月   新設の東京高等体育学校入学

  18年4月   校名変更により、東京体育専門学校になる

  19年9月   同上卒業

  28年10月  大阪学芸大学に転勤となる

  57年4月   同上定年退官となる


スポーツ歴

 福島師範2年生のとき、県中等学校庭球大会に2組出場のところ、上級生を抜いて出場するが、3年生から陸上競技に変わる。福島師範4年のときの県大会で100m11秒2で走り、すばらしい記録と新聞にのる。昭和15年の明治神宮体育大会(現国体)の陸上県予選で100m10秒9の県大会同記録をつくる。

 

指導者としてのスポーツ歴

 昭和23年の関東大学駅伝大会に体専の学生出場し、3位となったときは、指導の苦しさを忘れ、学生と苦に喜びの涙したこと、未だ忘れられない。鈴木武光先生と共に苦労したことも思い出となっている。昭和28年大阪学大に転勤し、平野分校所属となったが、キャンバスが余りにも狭く、運動場の施設も貧弱で指導に困ることが多かったが、昭和30年だったと思うが分校にお願いしてテニスコート一面作り、テニス部と軟庭部が交互に使用することで話がまとまったが、時折、うばい合いがあり、私が仲裁に入ったことなど思い出される(当時梅谷君が頑張っていた)。33年頃からは、天王寺分校の校舎外テニスコート3面があってそこで3分校の部員が集って練習に励んだことであって、その頃より徐々に部員全体の技術の向上がみられたと思っている。特に、加藤、片山君達が山場を作ってくれ、皆がその山に登らんとして頑張ったことが飛躍の元になったのだろうと当時を偲び、なつかしさでいっぱいである。

 

 女子の活躍もめざましく中田さんが当時学生戦で優勝し、リーグ一部におさまった素晴らしさは忘れられないことであった。そして、近畿国公立大学体育大会のテニスを本学が引き受けたので、池田のテニスコートをアンツーカーに切りかえて責任を果たしたこともよい思い出になった。最後に柏原キャンパスが建った折、総会実行委員会が設けられその実行委員になり体育施設の充実をはかる為、委員会で体育施設の必要さを力説し、特にテニスコートの12面確保を私の置土産として頑張り通したことが何とか現在のテニスコートが出来たこと、忘れられない。